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6月28日~7月2日の日程社会福祉法人東大阪市社会福祉協議会様の東北被災地支援活動ボランティアバスにて宮城県東松島市に赴いてまいりました。
どうも皆さんこんばんわ。川口やすひろです。


ご報告の前に、今回の東日本大震災で犠牲に成られた方々へ深い哀悼の意を表します。また、被害を受けられた方々へ心よりお見舞い申し上げます。





それでは日付形式でご報告していきます。
非常に長い更新内容になりますが、なるべく現地の状況や川口が考えたこと、感じたことを書いてまいりますのでどうぞお付き合い下さいませ。


○  6月28日・29日(1日目~2日目)   .


18時頃に東大阪市社会福祉協議会様の事務所に集合。
その場で出発前の打ち合わせと、野田市長からの挨拶がありました。



打ち合わせ会場の様子




日程表


説明会では、熱中症の注意や現地での天気予報が雨であるから活動に制限が掛かるかも知れないこと等が説明されました。
また、活動にあたっての班分けがありまして、私はA班でしたが、偶然にも農協時代の集金先のお客さんが居たので驚きました。前回の5月石巻のバスにも乗っていたとのことでしたので、その時の経験から注意点等をお聞きすることができました。
また、アメリカのアラスカ在住で実家が東大阪市にある女性の方もいらしてました。


簡単な説明の後、永和市民会館前にてバスに乗車。
これから12時間、延々とバスの中です。緊張と興奮でテンションが上がってたので、正直殆ど眠れませんでした。



バス外観。近鉄の観光用バスでした。



出発前の車中の様子。30名程の参加で2人がけ席と1人がけ席が出来ており、東大阪ケーブルテレビのインタビューを受けていた為、最後に乗車した私は運良く1人がけの席に座ることが出来ました。



出発の際に大勢のお見送りを戴きながら出発。
ルートは滋賀県を経由して福井、富山、新潟から福島、そして宮城入りという日本海側ルートでした。関東経由ルートの方が距離的には近いのですが、渋滞確率から考えると多少遠回りしても定刻に到着出来る日本海側ルートの方が確実だから、と運転手の方が仰っておられました。



福井のサービスエリアにて(AM1時頃)



宮城の菅生パーキングエリアで朝食(AM6時半位だったかな?)



菅生PAのみやぎ観光マップ。PA内でも『がんばろう!宮城』ののぼり旗が多く見かけられました。ああ、被災地に来たのだなぁ・・と感じました。


菅生PAでゴム長靴に履き替えて。作業着に着替えます。
そのまま現地の大曲市民センターに直行するため、菅生PAが最後の準備出来る場所だからです。


高速道路を降りて一般道に。
仙台市内を走って、海岸線へ向かって進んでいくのですが、途中から景色がドンドン変化していきます。
震災から既に三ヶ月経過しているので、ガレキによる道路封鎖等は解除されていたのですが、目に入って来るのは砂ぼこり
津波で海砂が内陸部まで入り込んでいたために、乾いた海砂が舞い上がるのです。
車が通るたびに海砂が舞い上がるので、黄砂のキツイ状態に近かったです。


また、街路樹が全て枯れていること。
塩水に浸かった為、塩害が発生してスギ等が枯れてしまっているのです。
震災の揺れで家々の門塀は崩れており、まだ手付かずの場所も多く見受けられました。
そして。午前9時頃に被災地に降り立ちました。



大曲市民センター前から海岸線を臨む

同じ位置の震災前のGoogleストリートビュー



同じ場所からパノラマで

同じ位置の震災前のGoogleストリートビュー


バスを降りると、そこは被災地でした。
TVで流れてくる映像そのままに広がる何も無い市街地。
全て津波が持ち去ってしまったのかと想うと思わず涙がこぼれました。


そして、私が確認したかった『現地のにおい』ですが、潮風の匂いに混じって来る何か生臭い匂い。
清々しい潮風ではなく、そこに混じっている匂いがイメージを超越しており、正しくここは被災地なのだ、と視覚的にも嗅覚的にも感じました。


遠く海岸線では漁港を復興しているのであろう大型クレーンが見えました。
機械音と共にトラックにガレキが積まれていく光景が遠方に見えました。おそらくあそこにはまだ見つかっていない犠牲者の方もいらっしゃるのだろう、と思いました。
我々は一般ボランティアなので海岸線での作業は出来ません。
遠くに聞こえる重機の音を聞きながら、ああ、あそこには行けないのだろうな、と思いました。


大曲市民センターで、東大阪市からヘルメットと黄緑のベストを貸与されました。
そして、ボランティア活動の注意事項を聴いて、主な作業道具をボランティアセンターから貸し出しを受けます。
スコップや側溝蓋持ち上げマシン(後に川口はこの機械担当になる)、モップや箒等。


装備品を一輪車に積んで交代で運びながら海岸線から約5kmの所の市街地へ。
我々の役割は『津波で詰まってしまった側溝の泥だし』です。
内陸部とは言えど、1.5m付近まで津波が来たのだろう、と分かる家の壁に付いている線
未だ処理出来ていないおびただしい量のガレキ。側溝にも生活道具と思われるモノや思い出の品が散乱しています。
そんな市街地を歩いて、現地到着。
早速作業を開始します。


作業は『側溝の蓋を器具を使って外す』『スコップで泥(主に海砂)を掻き出す』『掻き出された泥を土のう袋に入れる』『満タンになった土のう袋を一輪車で運ぶ』『既定の場所に土のう袋を積み上げる』『泥を取り終えたら掃除する』『側溝の蓋を元に戻す』と言う流れです。


コレがやってみるとかなりの重労働!
先ず、降水確率70%の天気予報を裏切った灼熱の暑さ。6月観測史上最高の34.4度だったそうです。
そして、風が吹くたびに舞い上がる海砂。
ヘドロの匂い。潮の匂いと混じって来る、生臭い匂いです。
しかもそのヘドロがムチャクチャ重いんです。これ。
海砂が水を吸って泥に成っているので、スコップ一杯持ち上げると10kgは行きます。
側溝の蓋もコンクリで厚さ8cm位ありまして、コレがまた重い。側溝蓋持ち上げマシンを使っても、その体制が中腰なもんだから、腰に来る。


たしかに、ボランティアで30人位でやらないとキツイ作業でした。
大勢で一気にやると1時間位で終わるのですが、実質距離にして30m位しか進みません。
市街地の側溝全てを考えると気の遠くなる作業です。
現地入りしたボランティアが数千人位でやらなければ終わらないでしょう。


しかも、排水の状態を見て排水管がどっか曲がっているのか詰まってしまったのか水の流れがあまり無い様な気がしました。
ここからはボランティアの領域を超えて行政の公共事業レベルの話になるのですが、パイプが詰まった状態では幾ら泥を出しても効率が悪いようにも思いました。
行政自治体の早急な対応が必要です。


現地の住民の方が作業中に差し入れを持ってきてくれたりとハートフルな感じになりました。
既に電気や水道は復旧しておりまして、ところどころの家では内装工事をしている音も聞こえました。差し入れをくださったおうちも内装工事中でした。
遠く大阪から来てくれて嬉しい。頑張ってくださいというお言葉を戴きました。
ましたが、私には少し引っかかりました
これは2日目に偶然開催出来た『川口やすひろ被災地ミニ集会』で。


初日ということで早めに午前の作業を打ち切り、近くの公園で昼食タイム。
夜行バスで殆ど眠れていなかったので、他の参加者も地べたに横になっておられました。



休憩場所で。後ろにあるのは仮設住宅



仮設住宅群


この公園も津波被害に遭った様で、野球場のスコアボードだけを残して全て流されてしまったようです。
奥にある武道館にはダンボールで仕切られた避難所がありました。17世帯が今もいらっしゃるそうです。
実際に仮設住宅で生活されておられる方におはなしを伺いたかったのですが、1時間しかない休憩時間に体力を出来るだけ回復させなくては成らなかった為、初日は断念しました。
仮設住宅に敷設されたむき出しの道路。
その脇には『スピード出すな。砂ぼこりが舞う!』という手書きの立て看板がありました。


この後、同様の作業を3時頃まで続けて、初日の活動は終了しました。
作業終了後、バスに乗って作並温泉のかたくりの宿へ。約1時間程かかりました。
途中、コンビニに寄ることが出来まして、色々と買い物も。
作業をしていた市街地でも自動販売機は復活しており、冷たい飲み物も買うことが出来ました。



かたくりの宿。フロントで説明


普通、ボランティアで行く場合はテント・寝袋持参なのですが、幸いにもかたくりの宿様のご厚意で宿泊出来る事に。
これはありがたかったですね。
温泉に入れて汗もながせて、部屋に布団もあって。


夕飯は東大阪市からの災害時食料、アルファ化米
『食える時に食っとけ。それが戦場で生き残る秘訣だ』との教訓(?)を活かして余った分を含めて2.5パック平らげる川口。
お腹いっぱいになって、22時に就寝。激動の活動初日は終了しました。





○  6月30日(3日目)  .
活動は2日目。
2日目も初日と同様に側溝の泥だしです。



バスから降車する作業着の川口


キリッと決めて居たのですが、この写真、何かオカシイところがあります。
よーく見れば分かります。



川口、痛恨の長靴左右履き間違え(笑)


しかも本人は現場につくまで気付かなかったという。
笑いを取りに行った訳では無かったのですが、このあたりで笑いを入れてくるのが川口クォリティーです。



現場付近。地図ではこのあたり

同じ位置の震災前のGoogleストリートビュー



現場作業の様子。2日目は写真を撮る余裕が出来ました。休憩中に近所のおばちゃんがデカビタの差し入れ。ありがたい!




側溝の中。ヘドロと海砂の泥で真っ黒です




休憩終わり!作業続行!




残った側溝の蓋を上げる作業に戻ります。私のチームは側溝の蓋の上げ下ろし担当です。


奥に見えているのが側溝の蓋持ち上げマシンです。
楽に蓋を持ち上げることが出来るのですが、作業中はずっと中腰を強いられるのでかなりの苦痛を伴います。
蓋に爪を引っ掛ける人・バールで蓋をずらす人・持ち上げマシンで動かす人・爪を外す人の合計4人1チームで息を合わせて作業しなければなりません。





側溝の蓋持ち上げマシンで蓋を持つ川口(左)と爪を掛ける青木さん(右)


この爪を掛けているのが、川口が農協時代に集金先で訪問していた青木さんです。
息を合わせて作業続行です。
写真をご覧いただければ分かると思いますが、これが中腰姿勢での側溝蓋持ち上げマシンの辛いところです。
蓋を持ち上げて、それを下ろして、掃除して、また蓋を閉じていく作業を続けて行きます。


午前の作業が終わりまして、一旦大曲市民センターへもどることに。



帰り道で。場所はこのあたりから海岸線を臨む。遠くに海岸線の松林が見えます。

同じ位置の震災前のGoogleストリートビュー





パノラマで。

同じ位置の震災前のGoogleストリートビュー



川口と。

同じ位置の震災前のGoogleストリートビュー


本当に何も無くなってしまってます。
被災以前はこの場所は空き地だったそうですが、その奥の松林までの間に多くの家があったそうです。それらが全て流されてしまった事がわかります。


一旦、大曲市民センターで昼食&休憩。
初日には行くことが出来なかったのですが、2日目は体力的にも余裕が出ていたので、往生院六万寺からの被災地慰霊幡を近所のお寺に届ける事に。海岸線に行けたら良かったのですが、立ち入り禁止区域だったため、近所のお寺の住職さんに預けることにしました。
休憩時間はわずか1時間。急ぎます。



往生院六万寺より『東日本大震災 犠牲者追悼 慰霊御供養』の慰霊幡


大曲市民センターのボランティア職員の方に道を教えてもらって出発。
市民センターから最寄りのお寺は、『曹洞宗 壽昌院』だったので、歩いて10分程。



なんとか迷わずに到着。津波で本堂や庫裏が流されてしまっており、墓地の塀も流されていました。土地勘が無いので墓地側から入ります。




震災で崩れたお墓。多くのお墓石が倒れたままでした。


壽昌院さんの境内に入ってご住職を探したのですが、どうやら出かけている様子。
これは困ったなぁ・・と思ったところに、復旧作業をされておられる業者と思われる方が居たので声を掛けたところ、直ぐに帰ってくるから待ったらどう?と言われましたので、作業着の皆さんと一緒になって話をすることに。


これがキッカケで、『川口やすひろ被災地ミニ集会』の開催につながります。


「どこから来たの?」
川口:大阪の東大阪市です。ボランティアバスで30人位で来てます。
「へぇ!大阪から。遠いところからご苦労さんだね。ありがとう。」
川口:皆さんは業者の方ですか?
「違う違う。地元の人間だよ」
川口:東松島市の業者の方でしたか。

俺ら、業者じゃないよ。皆仕事が無くなってしまってこのお寺にお世話になってるんだ
川口:家は津波で?
「家はなんとか大丈夫だったよ。すっごい揺れたけどねぇ。3分間位揺れたかな。でもなんとか家だけは無事だった」
川口:それはそれは・・
家は無事だったんだけどさ。職場が津波でねぇ・・あの津波さえ無ければ・・・


ここで私は突っ込んだ話が出来ないかどうかを思案しました。
今の皆さんの本音の部分を聞きたかったので、持っていた名刺をお渡しして、政治家志望であること、今回の震災での行政対応についてお聴かせ下さい、と。


川口:私は東大阪市で政治活動をやっているのですが(名刺を渡す)
川口:大阪も今度来るであろう東海・東南海・南海地震に備えた防災政策・復興政策が必要です。みなさんのご意見をお聴かせ下さい。
「兄ちゃん、政治家志望か。」
川口:はい。東松島市の行政の対応はどんな感じですか?


「うーん。先ずは被災民の多くは家は無事だけど俺らみたいに無職になってしまった人が大勢いるんだ。3ヶ月経ったけど、そういう就労支援とかが一切ないね」
「救援物資だって、石巻や女川は毎日のように大量に届いているけど、俺ら東松島市には月2~3回位しかこないんだよ」
「地域によって格差があるよね」
「義援金だってさ、すっげぇ額集まってるって聴くけどよ。なぁんにも来ないよ。こっちには」
「とにかく職が欲しいね。明日の生活も何でもそうだけど、カネが要るんだ」
「兄ちゃん、大阪に良い仕事先無いか?」
「津波で車も流されてしまったから、車も無いんだ。車を買うのにも走らせるのにもお金が要る」
「政府もなにやってんだかねぇ。俺らは家だけが無事だったけど、仕事がなけりゃあ意味が無いよ」
「国会のこと聞いてたらさ、腹立つよね」
「自衛隊の皆さんはすげぇ頑張ってくれたよね。俺ら今回のことで自衛隊にお世話になったからしみじみ感じたわ」
「ああ、自衛隊が頑張ってくれたおかげで道路も通れるようになったしな」



予想は出来ていたけれど。
思った以上の状況であること。そして、現地の皆さんの本音が次々と吐露されていく。
そこで、作業休憩をしていた皆さんに集まってもらって、ミニ集会を開くことに。


川口:私ども東大阪新風会では、『救国一致内閣を時限創設』『東日本復興院の創設』『被災民の中で震災が直接的な原因で無職になってしまった方へのベーシックインカムを2年時限立法で成立させる』等を復興支援政策に挙げております。あとは何が必要ですか?


「難しいことはわからねぇけど、就労支援とか失業手当てとかそういった給付が欲しいね」
「当面の間の生活費だけでいいんだがね」
「そうそう、俺らが迷惑掛けるわけにもいかねぇからな」
「田中角栄みてぇにガーっと地元やってくれる議員さんが居たらいいんだけどよ。今の地元選出の議員さんは足引っ張ってるだけだしな」



川口:なるほど・・たしかに菅さんを辞めさせるのに躍起になってる国会見てたら今そんなことやってる場合か、と私も思います。


「兄ちゃん、大阪だろ?橋下知事みてぇに引っ張ってくれる人が今は必要なんだと想うわ」
「ああ、橋下知事か。」
「リーダーシップだよな。なぁんか政治家見てたら保身ばっかでよ。」



そんな話をしていると何だ何だと次々と人が集まって来まして。
最後はミニ集会どころか集会みたいになってしまいました。


「兄ちゃん、日本を少しでも良くしてくれよ」


との言葉を胸に刻み、往生院六万寺の慰霊幡を皆さんに預ける事に。
1時間の休憩時間で既に45分が経過。住職さんも戻ってこないので預かって戴けますか?とお訊きしたら、ああ、いいよ。と。



慰霊幡を現地の皆様へ。


「なぁんか、暴走族みてぇだな、格好とかよ」
「ハハハハハ!たしかに」
「族の集合写真だ」
川口:なんでやねん(笑)


と皆さん笑顔で見送ってくださいました。
「兄ちゃん、これ飲んでいけ。」と冷えたポカリスエットをくださいました。


休憩時間ギリギリまで使って行われたミニ集会。
被災地の本音をお聞きすることが出来たのは大きかったです。
私も、政治家としての素質を考えて行政対応について深く考える事が出来ました。


その後、午後からも側溝の蓋と格闘しまして、3時になったので宿舎へ。
帰り道で、海岸線を通って帰るルートを取ってくれました。
被災地の海岸線は立ち入り禁止区域だったため、その様子を撮ることが出来ました。
ここからはその海岸線を迂回した時に撮影した写真を掲載します。






























同じ位置の震災前のGoogleストリートビュー


同じ位置の震災前のGoogleストリートビュー


同じ位置の震災前のGoogleストリートビュー
















同じ位置の震災前のGoogleストリートビュー

















同じ位置の震災前のGoogleストリートビュー


同じ位置の震災前のGoogleストリートビュー







大曲市民センター海岸線の県道247号航空自衛隊松島基地


このルートを通って帰りました。
そこには、TV報道そのままの被災地の実態がありました。



復興のカタチもみえはじめています。



こういった複合施設が建って、住宅も元通りになるまであと何年かかるのでしょうか。


宿について、地元放送局の番組を見ておりましたら災害ボランティアセンターの要請コーナーがありました。



作業道具を募っている様子


特に、側溝の蓋持ち上げマシンの需要が多いみたいです。
1台3万円位するのでなかなか集まらないのが現状のようです。
義援金はどこに行ったのでしょうか?


作業2日目も無事に事故無く終了。
残すところは最終日です。





○  7月1日・2日(4日目~最終日)   .


作業3日目は大曲市民センターとは別の公園に設けられた臨時ボランティアセンターへ。



センターに向かう一行



結構遠い・・


歩いているとところどころに石灰を撒いた跡がありました。
農協時代によく見かけた『DL石灰』の袋も近くにありました。
震災後の衛生面を考慮してまかれたのでしょう。



道に迷いつつようやく到着


本日の作業は臨時ボランティアセンター隣の東松島市大曲保育所の清掃のようです。



東松島市大曲保育所



保育所前にて


早速側溝の蓋を持ち上げて泥だしです。
もう3日目ともなると要領も分かっているのでスイスイと作業を進めます。
ただ、慣れた頃に事故は発生するので慎重に行います。



園児達も「ボランティアさん頑張ってー」と声援を送ってくれました


慎重に作業を進めて、今度は園庭に出る場所の清掃です。
高圧ジェット放水マシンを使っての作業です。









出来るだけ丁寧に泥を落としていく川口


電力制限の為、エアコンが使えない中、ドアを閉めてもらっての作業でした。
なので出来るだけ迅速に丁寧に高圧放水をするのですが、海砂を含む泥の為なかなか捗りません。
それでも根気よく洗い流して行きます。


訊けば、この保育所にも津波が押し寄せて1m位の高さまで来たそうです。
その為、園庭を裸足で歩いてみたら砂浜を歩いているのと同じ感触がしました
全て、海砂なのです。


作業終了後には、園児さんたちで『ボランティアさん、ありがとうございました!』というお礼と共にあ・り・が・と・うと書かれた飾りまで戴きました。
そして始まったのが、『ドドスコスコスコ・ドドスコスコスコ・ドドスコスコスコ! ラブ、注入!』 
思わず、まわりの雰囲気も明るくなりました(笑)
その後、全ての日程の作業終了となり、臨時ボランティアセンターへ。



道具清掃


キチンと道具は毎回高圧放水で清掃してから返却してました。
全ての日程を終えて、後は帰るだけとなりました。



帰り道の1枚


内陸部なのに船が未だに残っています。海岸線から約6km位の場所です。



あちこちでこういった光景が


このような光景を見ていると、個人や集団で出来ることと、その出来ることには限界があるということに気付きます。
行政や業者による大規模な作業が必要なのです。
しかしそれはボランティアの枠を超えており、莫大なお金が掛かる公共事業になります。
だからこそ、行政は市民が税金を納付してその税金で数百億・数千億円の公共事業をして復興に向けて動かねばなりません。
現地の被災民の皆様からそういった動きが無いことをお訊きした時に、東松島市の市議会は何をやっているのか?宮城県の県議会議員は何をやっているのか。
河北新聞を読んでいると、8月の選挙に向けて選挙活動がはじまっており、街宣車を出すか出さないかで揉めているとのこと。
ため息を通り越して憤りを感じます。


宿舎に戻りまして、温泉を戴き、出発まで休息。
ありがたいことです。
土産物屋さんで出来るだけ多く買い物を。
売り子のお姉さんも『ありがとうございます。ありがとうございます』となんども頭を下げてくださいましたが、逆にこちらこそ『大してチカラになれず、忸怩たる思いです』と頭を下げさせて戴きました。
『共にがんばりましょう、私は政治家志望なので出来ることを出来るだけやります』と申しますと、涙を流しながら『いい日本を作ってください』と固い握手を。


そして、大阪に向けてバスが出発。
あっという間のボランティアでした。
実質活動時間は、初日の4時間・2日目の4時間・3日目の2時間の合計10時間でした。
この10時間でどれだけのことが出来たのだろうか。
そして、どれだけのことが出来なかったのだろうか。とバスの中で自問自答しておりました。



気がつけば草津



極度の疲労の為か、帰りは殆ど熟睡しておりました。
時間も気付けばAM5時。10時間程記憶が飛んでました。どこのサービスエリアでおりたのか?夕飯は確か福島で峠ラーメンとかいう1000円の高いのを食べたなーとかをぼんやりと。



そして、見慣れた永和市民会館前に到着



これで全日程を終えることが出来まして本日、帰阪致しました。
感じたのは、感謝の気持ちとそれ以上にボランティア個人として出来ることの限界、行政としてやれることは何か?でした。
現地では決して絶望という雰囲気ではなく、ただただ不安な明日が怖いという声を戴きました。
その市民の不安を取り除くのが行政の使命である。

そのように考えます。
多くの犠牲者と多くの被害の後ろで、さらに数十倍の多くの市民が職を失い、明日はどうしようか。1ヶ月後は俺らどうなってるのかな?と言う不安を抱えています。



私は、私に出来ることを精一杯やりたい。
それを強く再認識したボランティア支援活動となりました。


ここにむすびにあたりまして、今回の企画を立案・実行下さった社会福祉法人東大阪社会福祉協議会様、アルファ化米等の物資支援を下さった東大阪市様、バスの安全運行をしてくださった近鉄の皆様、そして参加者の皆様、本当にお疲れ様でした。
厚く御礼を申し上げます。


私も10月に向けて更に一層励んで参ります。


川口やすひろ

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男性
誕生日:
1983/05/21
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