❏ 武将を示す大事なもの
12/13の瓢箪山商店街をパレードする、赤い羽根共同募金パレードに参戦することになり、急ピッチで小物の用意をしています。
今日は旗指物を作成しました。
フルカラーでプリントし、東高野街道を通った武将の家紋を貼りあわせました。
ダンボール甲冑だけでは、どの武将かは甲冑マニアか歴史に詳しい人じゃないとわかりませんので、旗指物も追加しよう、ということでデザインしました。
名前を豊臣秀吉に設定すると家紋が五三の桐になりますので、千成瓢箪時代の秀吉ということで羽柴秀吉、とか。
藤堂高虎と松永久秀は家紋が同じ蔦なので、カラーで分けようとか。
楠木正行と楠木正成についてはどっちからカラーで行こうとか。
細部にこだわりを入れ込んでいます。
戦国時代などは東高野街道を通過して京都に行ったり、若江城に行ったりしていたと考えられます。
1571年 9月22日 若江城で松永久秀の家臣、竹内秀勝が死亡。
1573年 7月20日 15代将軍足利義昭が京を追放され、羽柴秀吉の警固を受けて三好義継の若江城に入城する。
1576年 5月6日 大坂での苦戦の報告を受けた織田信長が5日に京都を発ち、若江城に入城する。翌日、天王寺砦に入る。
この辺り。
慶長20年(1615)4月、豊臣方と徳川方の最終決戦、大坂夏の陣が勃発した。前年の冬の陣の結果、堀を埋められ「裸城」となっていた大坂城では、冬の陣のときのように籠城戦で臨むわけにはいかない。このため、豊臣方では「野戦を挑む」ことと決定した。
4月28日、豊臣方の大野治房らが、徳川方の浅野長晟らと泉南の樫井で合戦、豊臣方の塙団右衛門が討死した。豊臣方は、大野治房の報告により、徳川方が河内路だけでなく奈良方面からも進撃してくることを知った。
徳川方は、紀伊方面からの部隊のほか、本隊と別働隊に分かれて大坂城を目指した。家康以下約12万の本隊は生駒山西麓の東高野街道を南下する河内路をとり、伊達政宗以下約3万5千の別働隊は奈良・法隆寺方面から河内に入る大和路をとった。大和川、石川を渡った道明寺方面で合流し、そこから北上して、平野・住吉方面から大坂城を攻撃しようとの作戦である。
ソース
まぁ、京都から大坂に入る場合、東高野街道を通過したと考えるのが妥当でしょう。
楠公父子については言わずもがなです。
先頭には「ひょうたん山夢街道まつり」ののぼり旗が必要になりますので、最終作成はまだ完了していませんが、着々と出来上がっていってますね。
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